【門前編】酒を悪者にしない、「享受の快」の「哲学」!<前編> かなり以前になりますが、「酒道黒金流・門前編」<其の弐>の10回目に、「酒を悪者にしない『哲学』~『集い』『味わう』『描写』の重要性~」というトピックがありました。今回は、その続編的な内容の「前編」であり、國分功一郎氏の新著、「手段からの解放~シリーズ哲学講和~」(國分功一郎著 新潮新書 2025年1月20日発行 本体880円)を参考に、「酒を悪者にしない『哲学』」について、さらに深く探求してみたいと思います。
【酒を排除する方向に進む現代社会】 令和7年1月、ショッキングなニュースが飛び込んできました。広島県府中市が、公民館での飲酒を全面禁止にしたというのです。広島県といえば全国屈指の酒どころで、吟醸酒の産みの親と言われる広島杜氏の故郷で、毎年「全国新酒鑑評会」が開催されている独立行政法人酒類総合研究所も所在している県です。そんな県であるにも関わらず府中市は、令和7年4月より公民館での飲酒全面禁止を決定したというのです。同市教育委員会によれば、生涯学習の場として世代を問わず幅広い活用を促す上で、飲酒はふさわしくないと判断したのだといいます。この理由を知り、私のショックは一層大きなものになりました。確かに全国の公民館では、食べこぼしや残り香によるクレームがあった等々の理由により、施設内での飲食を控えるよう呼びかけているところも少なくないようです。しかし、「生涯学習の場に飲酒はふさわしくない」という理由で飲酒を全面禁止にすると聞いたとき、ここに「待った!」をかけ、「生涯学習の場だからこそ、飲酒の場が必要!」と正々堂々と反論できる大人が1人もいなかったということを、大変残念に思いました。実際、町内会などからは住民のコミュニケーションの機会が減ると懸念する声も上がっていたようなのですが……。酒国・土佐ならば、きっと反論が噴出しただろうと思いますが、しかしこのような流れは、全国各地で着実に進行しているのではないかと、あらためて実感しています。 二つめは、作家の樋口昭雄氏の著書「のんではいけない~酒浸り作家はどうして断酒できたのか?~」(山と渓谷社)の抜粋記事をネット上で読んだのですが、この記事には戦慄すら覚えました。そこには、次のような表現がズラリと並んでいたのです。「2010年のWHO総会では、アルコールの有害使用は世界の健康障害の最大のリスク要因のひとつと決議され、アルコールは精神作用にはたらきかける危険薬物の一種と認められるようになった。」、「そもそも酒は(驚いたことに)ダウナー系のドラッグであり、神経を鎮静するものだという。だから飲酒と鬱とはごく近い関係にあるといわれる。」、「酒は人類最古にして最悪の薬物といわれているらしい。すなわち、もっとも恐ろしい危険ドラッグということだ。」、「アルコールというのは心に棲み着く悪魔のような存在であり、常に何かしらの誘惑をささやくのだろう。有史以前から人間と共存し、いろんな悪事をそそのかしてきたのが酒だとしたら、妙に納得がいく。」……ちなみに、この文章で誤解してしまう方がいるかもしれませんので、きちんと反論しておきます。確かに2010年のWHO総会で、アルコールの有害使用は世界の健康障害のリスク要因のひとつと決議されてはいますが、それは「有害な使用」をした場合であり、リスク要因の「ひとつ」であるというだけのことで、決して「危険薬物の一種」と認められたわけではありません。ましてや「ダウナー系のドラッグ」でも、「最悪の薬物」でも、「もっとも恐ろしい危険ドラッグ」でも、「心に棲み着く悪魔のような存在」でもないのです。……しかし、一般的に知識人として認知されている作家の方が、語彙力を駆使してフェイクなネタまで詰め込んでここまで酒をこきおろし、それがネット上で拡散されているとなると、それは大問題です。しかし、たとえ今回のこの情報を削除できたとしても、世界的な酒類を忌避する流れと相まって、このような傾向が今後ますます加速していくことはもはや避けられないでしょう。そんな流れの中においては今後も必ず、それなりに理論武装したアルコール嫌いの知識人が、私たちに向かって「アルコール飲料は危険ドラッグと同じ!どこか違いがあるなら言ってみろ!」というような論戦をふっかけてくるようなこともあるでしょう。その時、私たちは毅然とした態度で堂々と、理路整然とした反論の論陣を張ることができるでしょうか?そんなことを考えに考え、なかなか明快な答えを見出だせないままでいた時、まるで天に導かれるかのように出会い、「これこそ答えだ!!」と思わず膝を打ったのが、國分功一郎氏の著書、「手段からの解放」だったのです。 【國分氏が「暇と退屈の倫理学」で書き残したこと】 「手段からの解放」は、國分氏の代表作「暇と退屈の倫理学」(2011年刊。新潮文庫、2022年)の続編ともいえます。同書における氏の提案は、きちんと物を受け取れるようになることでした。つまり、「消費」ではなく「浪費」すること、物そのものを楽しむこと、それがこの経済を変えていくはずである……これは楽しむことが社会を変えるという提案です。我々は楽しみを消費社会によって奪われている。だから、楽しみを取り戻そうというわけです。ちなみに國分氏の言う「浪費」とは、「必要の限界を超えて何か物を受け取ること」で、人間が豊かに暮らしているときには、何らかの浪費があり、浪費の先には満足があり、浪費はそこで止まるのだといいます。一方「消費」は、20世紀になって人間が始めた全く新しいことで、物ではなく観念や情報や記号を対象にしており、その特徴はそれが決して止まらないところにあるというのです。たとえば、グルメブームを考えてみると、流行の店に行って食事をする。そこで重要なのは食事ではなくて、「その店に行った」という観念です。そして、流行の店が変化すれば同じことを続けなければならない。「流行の店」はここで完全に記号になっている。記号はどれだけ受け取っても、決してお腹いっぱいにはならないし、満足が訪れない。だから消費はいつまでも終わらないのだというのです。消費社会にとって一番困るのは消費者が満足してしまうことで、なぜなら消費が止まってしまうからです。だから、消費社会は我々が心から楽しんで満足を得ることを全力で阻止しようとするのだといいます。「暇と退屈の倫理学」ではこのことを、我々は浪費家になって物を楽しんで満足できるはずなのに、消費者になることを消費社会によって強いられると表現しています。 浪費すること、物そのものを楽しむことが社会を変えるという提案……しかしまだ、大きな課題が残ったままだったと國分氏は語るのです。それは「楽しむ」とはいったいどういうことなのかという問いなのだといいます。これこそが「暇と退屈の倫理学」で書き残した課題なのだと。これまで哲学であまり論じられなかった「楽しむ」とか「楽しみ」を、國分氏は「享受」という言葉で考えていきたいのだと語っています。今も続く消費社会が我々から楽しみを奪い、それによって環境破壊をもたらすとともに、人々の心身に大きなダメージを与え続けているのだとすれば、楽しむとはどういうことかという問いは、決してどうでもよい問いではないのだと語り、これを哲学的に考えてみたいのだと國分氏は語るのです。 【嗜好品とは何か……そしてカントへ】 楽しむとはどういうことかを論じるために國分氏は、「嗜好品」に注目します。嗜好品とは、純粋に楽しむためのものです。辞書を引くと「嗜好品」は、「栄養のためでなく、味わうことを目的にとる飲食物。酒・茶・コーヒー・タバコなど。」(大辞林)とあるそうです。嗜好品は栄養摂取のような目的を持たない。食事は栄養摂取のために必要ですが、もちろんそのためだけのものではなくて、楽しむものでもあるのだといいます。「美味しい」と思い、食事を楽しんでいる時、その楽しさは栄養摂取という目的とは無関係なのだと。栄養摂取できているから楽しいわけではなく、そもそも、栄養摂取という目的のために食事をしていたら、食事を楽しめるでしょうかと語っています。そして國分氏は、結論を先取りしてお話しすると、嗜好品は目的の概念に対立している、目的から自由といってもいいのだというのです。ただ、前記の定義の中に、「味わうことを目的にとる飲食物」とあり、疑問を抱く人もいるかもしれませんが、その疑問は後に解消されるはずですと語っています。 「嗜好品」について、さらに調査を進めていく中で國分氏は、「嗜好品」の議論がカントの中にあることに気づいたのだといいます。そして、カントの議論の仕方の特徴のひとつは、何ごとにも「上位/下位」「高次/低次」とランク付けするところだというのです。カントによると、嗜好つまり享受は低次のものとされているのだといいます。嗜好につきものである「快/不快」の感情に高次と低次があるというのです。そして、カントが低次の感情や高次の感情を整理して論じている著書が、「判断力批判」なのだといいます。この著書から、享受の概念が現れる一節を引用すると次のとおりです。「快適なものはまた、〔人間を]開化するのではなく、たんなる享受に属する。」……カントは、「享受」の対象を「快適なもの」と呼んでいるのだといいます。享受のもたらす快適、享受の快適は、カントの用語では「快適なもの」と言い換えられるということです。なお、日本語だとややこしいのですが、「快」と「快適なもの」ははっきりと区別されていて、前者の方が広い概念になりますので注意してくださいと、國分氏は注意を促しています。さて、カントの一節は、快適なものは人間を成長させる(開化する)のではなく、人間はこれを単に享受するだけ、つまり楽しむだけである、という意味になるのだといいます。そして、この単純な説明だけでも、享受の快が低次の感情であるといわれていることの意味は、ある程度理解できるでしょうと語るのです。 【四つの「快」】 そしてカントは、人間が感じる快の感情の対象は四つしかないと、言い切っているのだといいます。快というのは、人によって気分によって、色々な種類があると考えてしまいがちですが、しかし、概念として突き詰めて整理すれば、いずれもこの四つに入るというのです。それは、「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」の四つだと。直感的に分かると思いますが、「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」は高次の能力に関わっています。これら三つは世間一般においても高級なものと考えられているといえるでしょうと。カントはこれらの快の根拠を徹底して考えたのだといいます。そして國分氏は、まずこれら三つの高次の能力の実現の方を詳しく説明しています。その理由を、同じく快の一つに数え上げられながらも、低次である点で他の三つとは異なる「快適なもの」、すなわち享受の快は、それらとの差異においてうまく理解されるようになると思われるからだと語るのです。 【善について】 善が快の対象というのは、そのままでは納得がいかないのではないかと語り、國分氏は、実際カントも、善はまずは、快や満足を完全に排除して定義されなければならないと考えているのだと指摘しています。そして、國分氏は以前、とある小学校で「人に親切にすると気持ちがいいよ」というポスターを目にした時、道徳的堕落を感じ、カントがいたら怒りだすと思ったのだといいます。気持ちよくならないならば人に親切にしないのかという話になるわけで、これほどカント哲学に反する言葉はないのだと。気持ちよくなるからなどの動因によって善いことをする人を、我々は決して道徳的とはみなさないのだと語るのです。ところが、なぜ人間がそう思うのかの理由をカントは説明しないのだといいます。これが意味しているのは、人間は善とは何かを教わらずとも、事実としてそれが何かを知っているということだというのです。この事実をカントは「理性の事実」と呼んだのだと。人間にはあらかじめ道徳的観念が備わっている。事実としてそうであるというわけですと語っています。 カントの倫理学では、「気持ちよくなるから人に親切にする」という振る舞い方は、低次の欲求能力の実現といえるのだのいいます。何かの動因に突き動かされて、この場合ならば、「こんなふうに振る舞うと自分は気持ちよくなるから、そう振る舞おう」と考えて行為することは、低次の欲求能力の実現なのだと。では、高次の欲求能力の実現とは何かというと、それは「これはやらなければならないことだからやるのだ」という形で行われる行為に他ならないのだというのです。善はただ善であるという理由だけで為されなければならないのだと。ポイントはここで善の内容が事前に確定されていないことだといいます。善は善であるが故に為されなければならないと考えたカントは、「これは善であるから、この善を為さねばならない」という形式だけに注目したのだというのです。そのような形式に沿って行為する時、その人は道徳的であり、高次の欲求能力を実現しているといわれるのだと。ちなみにこの形式をカントは、「定言命法」と呼んだのだといいます。 どうしてなのかは分からないけれども、何が道徳的で何が道徳的ではないかが人間には分かっている……これは言い換えれば、人間には既に自分のあるべき姿が分かっているということだと、國分氏は語ります。そしてカントは、このあるべき姿を人間にとっての「目的」と言ったのだというのです。人間には、あらかじめ目的がインストールされているのだと。目的があらかじめ人間にインストールされているということは、人間はこの目的から逃れられないということだといいます。つまり、人間は道徳的であろうとすることを義務づけられているわけですと。ここから享受についての、カントの実に興味深い一言が導き出されるのだというのです。「ある人間がたんに享受するためだけに生きており、そのひとの現存が(そしてたとえ、そのひとがこの点ではどれほど熱心であろうとも)、それ自身である価値をもつことを、理性はけっして納得させられることはできないであろう。」……この一節は、どれほど熱心であろうとも、何かを享受することのためだけに生きるのは、人間のあるべき姿ではないということだといいます。人間の目的を既に知っている理性は、享受のためだけに生きている人間の生き方には納得しないのだと。ただここでのポイントは、カントが「享受するな」と言っているわけではないということだと國分氏は指摘するのです。「享受のためだけに生きているのはだめですよ」と言っているのであって、人間は確かに自らのあるべき姿という目的のために生きることを義務づけられているけれども、人間の生がこの目的への奉仕に満たされるべきだとまでは言っていないのだと。人間の生の中に享受の快、すなわち快適なものが存在する余地を認めている。つまり、目的への奉仕は義務だけれども、目的からの自由が全く認められていないわけではないのだと、國分氏は語っています。 【美について】 カントの語る美の意味するところを理解するには、それが何と異なっているのかを知るのが手っ取り早いとして、國分氏は次の三つの例をあげています。①「このバラは美しい」②「バラというものは一般に美しい」③「このバラは好ましい」……①が趣味判断で、②が論理的判断で、③が感官判断と呼ばれているのだそうです。美が対象になっているのは①の趣味判断なのだといいます。つまり、①が他の二つとどう違うのかが問題であるわけですが、今回の話の観点からは、③が重要になるのだと。③の感官判断は、快適なものに対応しているからだというのです。①と③の関係の説明は、次のとおりなのだといいます。「このバラは好ましい」という判断は、「私はこのバラが好きだ」ということを意味しており、つまり、「このバラを眺めて楽しんでいる時に私は快適だ」ということですと。快適であるとの判断は、従って、個人的な判断の域を出ないし、それを出ようともしていないのだというのです。それに対し、私が「このバラは美しい」という判断を下した時、それは決して「このバラは私にとって美しい」という意味ではないのだと。「美しい」という判断を下す時、我々は「どんな人だってこれを美しいと思うはずだ!」という強い確信を抱いているからだといいます。快適さの判断はあくまでも個人的なものに留まるけれども、美しさの判断は個人の判断を超えて万人の同意を要請する……ここに美なるものの特徴があるのだというのです。そして國分氏は、この議論を別様に読んでみたいと語っています。美しいものは人それぞれではない。快適なものは人それぞれである。美しいものは万人の同意を要請するが、快適なものは個人の楽しみそのものである。こう考えてみると、快適なもの、あるいは享受の快が、それぞれの人の個性のようなものと切り離せないことが分かるのだというのです。美しいものに触れることは素晴らしい経験でしょう。しかし、それと同じぐらい、快適なものも各人にとって大切なものではないでしょうかと國分氏は訴えています。それは、その人の感性や感覚そのものに根ざしているのですからと語るのです。 快適なものは、それが個人的なものに留まるがゆえに大切なのだといいます。そしてここからさらに、快適なものの危機、享受の快の危機について論じることもできるのだと國分氏は指摘するのです。快適なものについての判断は人それぞれであると無限定にそう考えることができるでしょうか、と。快適なものの判断が人それぞれでなくなってしまう状態について、考える必要はないでしょうかと國分氏は語っています。たとえば、「これこそが快適なものであるから、君たちはこれを享受しなさい」と、人々が幼い頃から特定の享受の対象を与えられ続けている社会について考えることはできないでしょうかと語るのです。快適なものの判断が人それぞれであるためには、各人が異なった感性を幼い頃から養ってきていなければなりません。それがいわゆる個性の根拠の一つです。しかし、感性の養い方が産業によって誘導され、産業に奉仕するように一様に定められてしまう事態が考えられるのだといいます。國分氏が考えているのは、資本主義、消費社会、そして文化産業の問題だと。ここでは消費社会という言葉で問題を代表させましょうとして、次のように語るのです。この問題を考える上で重要なのは、人間は放っておいても何かを享受できるわけではないということですと。何かを享受する仕方をまだ十分に学んでいない段階で、次々に「これを享受せよ」と商品を送り込み、人々の享受の感覚を支配してしまう。それが消費社会なのだといいます。カントの時代にはそんなことは考えられませんでしたが、今はそれを大前提にしてものを考えなければなりません。そうすると、実は、快適なものの判断は人それぞれであるというカントの前提を、そのままでは受け入れられなくなってしまうのだというのです。カントの分析が無効になったという意味ではありません。「これは私にとって好ましい」という判断が普遍性を要求しないことに変わりはなく、その判断を、誰もが同じ対象に対して下している、そのような事態が訪れているのではないかということだといいます。すると、カントの分析が無効になっているどころか、カントの分析から、消費社会に対する対抗策すら導き出すことができるでしょうと語るのです。それは美の判断の経験を大切にするのと同じくらいに、快適なものの経験を大切にすることですと。何かを享受する機会を、さらには、何かを享受することを学ぶ機会を、産業に奪われないようにすることですと國分氏は語っています。さらに、享受の快を大切にすることは、一人一人の自分なりの感性や感覚の養いを大切にすることであり、そしてそれは単に個人的な問題ではなく、消費社会に取り囲まれている以上、これは政治的、社会的、経済的な問題であるのだと語るのです。 続いては、①趣味判断「このバラは美しい」と②論理的判断「バラというものは一般に美しい」の違いを語っています。論理的判断の場合、「バラというものは美しいものである」という一般的な概念が前提になっています。それに対して、「このバラは美しい」という判断は、あくまでもこのバラに対して下されるもので、美しい対象は常に個別的であり、その人が初めて出会った対象なのだと。ですから、「美しい」という判断は概念を前提にできないのだというのです。概念を前提にしているか否かが、①と②の違いなのだといいます。美についての判断は、美しさとは何か、何が美しいものかを説明する概念を前提にしていないところに最大の特徴があるのだというのです。しかし、ここに一つの謎が生まれるのだと。概念がないということは、何らの規則もそこに前提できないということで、つまりこれこれの条件を満たせば美しいといえる、そのような条件は考えられないということです。にもかかわらず、我々は「美しい」という判断を下し、その判断に誰もが同意することを確信し、しかも大抵の場合には美しいものには普遍性があるのだといいます。カントは、個人的な判断が、それを超えた普遍性を要求するものにまで高まる仕組み、まさしく高次の能力が発揮される仕組みを解き明かそうとしたわけですと國分氏は語るのですが、このあたりの詳細は長くなりますので、ここでは省略させていただきます。簡潔に言えば、概念を前提していないのに、対象に規則性が見いだされ、規則はなかったのに、まるで規則に従っていたかのように、「こうであるべきだ」と感じられる……これが美の正体なのだというのです。 このように美とは、規則はないのに規則的であるもの、概念なしで必然性を感じさせるものを指しており、「こうあるべきだ」と、何かに依拠しているわけではないのにそう感じる状態……これをカントは、「目的なき合目的性」という有名な言葉で説明したのだといいます。目的とはその対象のあるべき姿を意味し、善の場合には目的があらかじめ与えられていましたが、美の場合にはそうはいかないのだと。対象のあるべき姿があらかじめ与えられることはない。しかし、まるで目的にかなっているかのような感覚を与える対象があって、その時に我々が感じるのが美であるわけだというのです。目的なき合目的性という言葉は、一見すると受け入れがたいようにも思えますが、こうして考えてみれば決して突飛なアイデアではないと分かるのだといいます。そのあるべき姿をあらかじめ知っていたわけではないのに、目の前にある対象はまさしく今あるがままの姿であるべきだと、そう感じる……これは日常的にも体験すること(これまでに見たこともない形状の花の美しさに感動する等)だと思うと、國分氏は語るのです。<以下、「後編」へ続く>